2026年9月11日。
東京・深川にある成田山深川堂を訪れ、護摩に参加した。
燃え上がる炎を前にして、しばらく座る。
読経の声が響き、護摩木が焚かれていく。
普段の生活では、なかなか経験しない時間じゃ。
そのあと月島へ向かい、もんじゃ焼きを食べた。
護摩ともんじゃ。
ずいぶん違う組み合わせじゃのう。
じゃが振り返ってみると、この二つの間に流れていた時間も含めて、なかなか良い一日だったように思う。
頭の中には、いつの間にか色々なものが溜まる
仕事のこと。
お金のこと。
これからやりたいこと。
勉強しなければならないこと。
人との約束。
まだ終わっていない仕事。
人間の頭には、毎日少しずつ色々なものが積み重なっていく。
一つ一つは小さくても、気づけば頭の中がずいぶん騒がしくなっている。
そんな状態になると、
「自分はいったい何をしたかったのじゃろう」
ということまで見えなくなることがある。
場所を変えると、考え方も少し変わる
そんなとき、
「考え方を変えよう」
と頑張るだけでは、なかなかうまくいかない。
そこで役に立つのが、場所なのかもしれん。
寺でもよい。
神社でもよい。
公園でも、喫茶店でも、銭湯でもよい。
そこへ行ったら、一度日常を止める。
スマートフォンから少し離れる。
仕事をいったん置く。
そして、
「今、自分は何をしているのか」
「次に何をしたいのか」
を考えてみる。
人間には、考えるための場所が必要なのかもしれんのう。
儀式には「区切る力」がある
ふむふむ。
護摩を見ながら、儀式というものについて少し考えた。
同じ願いなら、自宅で考えることもできる。
わざわざ寺へ行かなくてもよい。
それでも人は、昔から儀式を作ってきた。
新年を祝う。
墓参りをする。
誕生日を祝う。
結婚式をする。
そして祈る。
なぜじゃろう。
一つには、
人間は心の中だけでは、なかなか物事に区切りをつけられないからではないかと思う。
場所を変える。
姿勢を正す。
手を合わせる。
炎を見る。
そういう「形」を作ることで、
心にも区切りを作る。
儀式というのは、何か不思議なことを起こすためだけにあるのではなく、
人間が自分自身と向き合うための装置でもあるのかもしれん。
そして、もんじゃを食べる
護摩を終えたあと、月島へ向かった。
もんじゃ焼きの店、バンビに入る。
鉄板を囲んで、熱いもんじゃを食べる。
さっきまで護摩の炎を見ていたのに、今度は鉄板を眺めている。
人生とは妙なものじゃのう。
じゃが、こういう時間も大切なのだと思う。
ずっと深刻に考えている必要はない。
祈る時間があって、
考える時間があって、
腹が減ったら飯を食う。
そしてまた日常へ帰る。
それでよい。
自分だけの「戻る場所」を持ってみる
何かに迷うたび、新しい答えを探す必要はないのかもしれない。
むしろ、
いつもの場所へ戻ってみる。
そこで一週間を振り返る。
今月を振り返る。
これからのことを少し考える。
そしてまた生活へ戻る。
そんな場所を一つ持っておく。
人生が大きく変わるわけではない。
悩みが全部なくなるわけでもない。
それでも、少しだけ方向を確認できる。
船がときどき現在地を確かめるようなものじゃ。
迷わないためではない。
迷ったときに、戻ってこられるようにするためなのじゃ。
さて。
あなたには、
少し疲れたときに「ここへ戻ろう」と思える場所があるかのう。




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