成田山新勝寺へ行った。
この日は成田山を参拝し、成田山書道美術館を見た。その後は成田空港へ行き、成田空港温泉 空の湯へ。
東京へ戻ってから丸善丸の内本店にも立ち寄った。
けれど、この日の最後に、どうしても行っておきたい場所があった。
東京・千代田区にある将門塚である。
成田山と平将門。
一見すると、千葉県成田市にある大きな寺と、平安時代の武将には、それほど関係がないようにも見える。
ところが、この二つには千年以上前から続く深い因縁がある。
そして、その歴史から今でも語られる「タブー」がある。
「平将門を祀る神田明神の氏子は、成田山へ参拝しない」
「神田明神と成田山の両方を参拝するのは避けたほうがよい」
そんな話を聞いたことがある人もいるかもしれない。
なぜ、そんなことが言われるようになったのじゃろう。
成田山と平将門の因縁
話は平安時代まで遡る。
939年、関東で勢力を拡大した平将門は「新皇」を称し、朝廷と対立した。
いわゆる平将門の乱である。
これに対して朝廷は、武力だけではなく、祈りによっても乱を鎮めようとした。
成田山新勝寺の開山縁起によれば、朱雀天皇の命を受けた真言宗の僧・寛朝大僧正は、不動明王像を奉じて関東へ向かった。
そして成田の地で21日間にわたって護摩を焚き、乱の終息を祈願した。
結願の日に将門が敗れ、その後、この地に成田山新勝寺が開山されたと伝えられている。大本山成田山新勝寺
つまり、成田山の始まりには、
「平将門の乱を鎮めるための祈り」
が深く関係している。
そして、その御護摩は千年以上を経た現在まで受け継がれている。大本山成田山新勝寺
一方、平将門は神様になった
ところが、歴史は面白い。
朝廷に背いた反逆者として討たれた平将門は、それで人々から忘れ去られたわけではなかった。
後世になると、将門を祀る信仰が生まれていく。
その代表的な場所の一つが、東京の神田明神である。
現在の神田明神では、平将門命を三之宮の祭神として祀り、「まさかど様」として除災厄除の神様と位置づけている。
神田明神によれば、将門が祭神として奉祀されたのは1309年。明治時代に一時、本殿から遷された時期もあったが、1984年に再び本殿の祭神として復座した。神田明神
ここで、不思議な構図ができる。
一方には、
将門の乱の平定を祈ったことを開山の由来とする成田山。
もう一方には、
その平将門本人を神様として祀る神田明神。
それなら、
「将門を信仰する人間が、将門の平定を祈った成田山へ参拝するのはいかがなものか」
という感情が生まれるのも、分からなくはない。
そこから、神田明神の氏子は成田山へ参拝しない、両方へ参拝するのは避ける、といった話が「タブー」として語られるようになったのじゃろう。
ただし、ここは少し注意したい。
これは、現在の成田山や神田明神が公式に「双方を参拝してはいけない」と定めている、という意味ではない。
少なくとも現在の成田山は宗派を問わず行事に参加できると案内しており、大本堂での御護摩にも広く参拝者を受け入れている。大本山成田山新勝寺
千年以上前の出来事から生まれ、長い時間の中で語り継がれてきた伝承や信仰上の感情として考えるのがよさそうじゃ。
それなら、両方に手を合わせたいと思った
この話を知ったとき、自分は少し違うことを考えた。
「もう、よいのではないか」
千年以上も前の争いなのじゃ。
もちろん、歴史をなかったことにしたいわけではない。
平将門が朝廷と戦ったこと。
朝廷が将門を討とうとしたこと。
寛朝が乱の終息を願って護摩を焚いたと伝えられていること。
それぞれ歴史として知っておくべきことじゃろう。
でも、そのときの敵味方を、
千年以上あとの自分まで引き継ぐ必要はあるのじゃろうか。
そう考えると、
成田山へ参拝したあと、むしろ将門にも手を合わせたくなった。
だからこの日は、成田山から東京へ戻ったあと、将門塚へ向かった。
願ったことは、とても単純だった。
平将門も。
寛朝も。
将門と戦った人たちも。
もし死後の世界というものがあるのなら、今ごろは昔の争いなど忘れて、穏やかに暮らしていてほしい。
できれば仲良く茶でも飲んでいてほしい。
千年以上もたったのじゃ。
もう、よいじゃろう。
千年以上たっても、人は歴史を覚えている
考えてみると、不思議なことである。
将門が生きていたのは、千年以上も昔のことだ。
将門もいない。
寛朝もいない。
将門と戦った人々もいない。
当時の朝廷も、社会制度も、人々の暮らしも、現在とはまるで違う。
それなのに、物語は残った。
成田山では今も護摩の火が焚かれている。
成田山自身も、開山以来千年以上にわたって御護摩祈祷が続いてきたとしている。大本山成田山新勝寺
そして東京では、神田明神に平将門が祀られている。
将門塚にも人がやってきて、手を合わせる。
人間の一生は長くても数十年、百年ほど。
それなのに、人間が残した物語は、ときとして本人よりはるかに長く生きる。
千年後の人間が、
「あの人は何をしたのだろう」
「あのとき何が起きたのだろう」
と考えている。
歴史とは、そういうものなのかもしれん。
敵だった人も、誰かにとっては大切な人だった
歴史を勉強していると、
「朝廷側」
「将門側」
「勝者」
「敗者」
と、人間を分類してしまうことがある。
もちろん、歴史を理解するためには必要なことじゃ。
けれど、実際にその時代を生きていた人たちは、教科書の登場人物ではなかった。
一人ひとりに生活があった。
家族がいた。
守りたいものがあった。
正しいと思っていることがあった。
将門には将門から見えた世界があり、
朝廷側には朝廷側から見えた世界があったのじゃろう。
寛朝もまた、
「後世の人間から将門の敵として見られよう」
などと考えて護摩を焚いていたわけではないはずじゃ。
成田山の伝承では、寛朝が祈ったのは乱の終息であり、成田山の略年表でも「平和祈願」と表現されている。大本山成田山新勝寺
千年以上あとに生きる自分が、
どちらか一方を憎まなければならない理由はない。
そう思った。
歴史を学ぶことは、昔の争いを引き継ぐことではない
歴史を学んでいると、たくさんの争いに出会う。
戦争。
政争。
宗教対立。
領土争い。
裏切り。
復讐。
勝者と敗者。
もちろん、
何が起きたのかを知ることは大切じゃ。
なぜ争ったのか。
どんな社会だったのか。
誰が何をしたのか。
後世にどんな影響を与えたのか。
そこを曖昧にして、
「みんな仲良くしましょう」
だけで歴史を片づけてしまうのも違う。
歴史上の出来事は、できるだけ事実に沿って理解したい。
けれど、
過去の人間の憎しみまで、
現代の自分が受け継ぐ必要はないのではないか。
歴史を知ることと、
昔の敵味方を自分の敵味方にすることは、
同じではない。
むしろ千年後に生きているからこそ、
両方に手を合わせることができる。
それは後世に生きる人間に与えられた、ちょっとした特権なのかもしれん。
「千年後」という物差し
この日のことを考えているうちに、
歴史とは別のことまで考えるようになった。
自分たちも、日々いろいろなことで腹を立てる。
仕事。
金。
人間関係。
立場。
評価。
意見の違い。
「あの人だけは許せない」
と思うこともあるじゃろう。
もちろん、本当に許してはいけないこともある。
距離を取った方がよい相手もいる。
自分や誰かを守るために、争わなければならない場面もある。
だから、
何でも許せばよいという話ではない。
けれど、
一つだけ面白い物差しがある。
「これは、千年後にも争うほどのことじゃろうか」
と考えてみるのじゃ。
千年後。
自分はいない。
相手もいない。
いま勤めている会社も、どうなっているか分からない。
自分の肩書もない。
銀行口座の残高もない。
SNSの投稿も、
今日腹を立てていることも、
ほとんど残っていないじゃろう。
平将門と朝廷の争いでさえ、
千年以上が過ぎた今では歴史として眺めている。
そう考えると、
いま目の前で起きていることも、
ほんの少し遠くから眺められることがある。
成田山の護摩の火を見ながら
成田山では、現在も御護摩が行われている。
護摩木を焚き、その炎によって煩悩を焼き尽くし、さまざまな願いの成就を祈る密教の修法である。大本山成田山新勝寺
自分も成田山へ行くと、
あの炎を見ながら手を合わせることがある。
千年以上前。
同じ成田の地で、
寛朝も護摩の炎を前に祈ったと伝えられている。
もちろん、建物も違う。
時代も違う。
祈っている内容も違う。
それでも、
千年以上前の人間と、
現代を生きている自分が、
「祈る」という行為によって少しだけつながっている。
そう考えると面白い。
そして、この日の自分が祈ったのは、
勝利ではなかった。
誰かが負けることでもなかった。
将門も。
寛朝も。
当時そこにいた人たちも。
どうか今では穏やかであってほしい。
ただ、それだけだった。
将門塚へ
東京へ戻り、丸の内へ。
丸善丸の内本店へ寄ったあと、将門塚へ向かった。
成田山から将門塚。
歴史的な因縁を考えれば、
少し変わった巡り方なのかもしれない。
けれど、自分にはこの順番がしっくりきた。
成田山で不動明王に手を合わせる。
そして、
将門塚でも平将門に手を合わせる。
どちらかを選ばなければならないとは思わなかった。
千年以上前に争った人たちのために、
千年以上あとの人間が、
両方の場所で平穏を願う。
そんな参り方があってもよいではないか。
あの世では、仲良くしていてほしい
もし、あの世というものが本当にあるのなら。
平将門は、
寛朝に会ったことがあるのじゃろうか。
最初は、
「おぬし、あのとき私を調伏しようとした坊主ではないか」
なんて話になったかもしれん。
寛朝も、
「いやいや、こちらにも事情がありましてのう」
などと言ったかもしれない。
そして千年もたてば、
さすがに話すこともなくなって、
二人で茶でも飲んでいるかもしれん。
もちろん、これはただの想像じゃ。
死後の世界があるのかも分からない。
二人が会っているのかも分からない。
けれど、
そうであってほしいと思う。
人間は生きている間、
いろいろな理由で争う。
時代によっては、
命まで奪い合う。
けれど最後には、
勝った人間も死ぬ。
負けた人間も死ぬ。
偉い人も死ぬ。
名もない人も死ぬ。
そうして千年が過ぎる。
それなら最後くらい、
敵も味方もなく、
穏やかであってほしい。
過去は変えられない。でも、受け取り方は選べる
成田山から将門塚へ。
考えてみれば、少し変わった一日だった。
千年以上前には敵味方だった人たちに、
同じ日に手を合わせた。
けれど、それでよいと思っている。
歴史は変えられない。
起きたことを、
なかったことにもできない。
将門の乱が起きたことも、
将門が敗れたことも、
寛朝の祈祷が成田山の開山縁起として伝えられてきたことも、
現代の人間が書き換えることはできない。
じゃが、
その歴史を自分がどう受け取るかは選べる。
昔の憎しみを受け継ぐこともできる。
勝者だけを讃えることもできる。
敗者だけに肩入れすることもできる。
あるいは、
両方の人生を眺めながら、
「もう争わなくてもよいといいのう」
と手を合わせることもできる。
歴史を学ぶ意味の一つは、
誰かを新しく憎む理由を見つけることではなく、
人間がなぜ争ったのかを知り、
同じことを繰り返さないために考えることなのかもしれん。
千年後の祈り
この日、
成田山で護摩の炎を見て、
最後に将門塚で手を合わせた。
平将門も。
寛朝も。
当時争ったすべての人たちも。
もう敵でも味方でもなく、
安らかであってほしい。
そんなことを祈った。
千年以上もたったのじゃ。
もう十分じゃろう。
そして帰りながら、
少しだけ自分自身のことも考えた。
いま腹を立てていること。
いま許せないと思っていること。
いま大問題だと思っていること。
それを、
千年という時間の向こう側から眺めてみる。
すると、
少しだけ違った形に見えるものもあるかもしれない。
さて。
あなたが今抱えている怒りやわだかまり。
千年後のあなたがそれを眺めたなら、
どんなふうに見えるじゃろうか。









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