2026年8月、高校時代の後輩と谷川岳に登った。

日帰りではなく、山頂近くにある肩の小屋で一泊する山行だった。
登っているあいだにも景色は刻々と変わった。
山の稜線。
湧き上がる雲。
その向こうに連なる山々。
そして夕方になると、雲の間から光が差し込み、眼下には雲海が広がった。

翌朝になれば消えてしまうかもしれない景色である。
夜になると、今度は空が主役になった。
街ではなかなか見ることのできない星空が広がっていた。
雲の上で迎える夜。
山小屋でいただく食事。

特別に豪華なものがあるわけではない。
それなのに、
「ありがたいな」
と思った。

山へ登ると、ときどき普段とは少し違った尺度で物事を考えるようになる。
このとき自分の頭に浮かんだのは、
「この山は、自分が生まれるずっと前からここにあったのだ」
という、当たり前のことだった。
谷川岳という山
谷川岳は、群馬県と新潟県の県境に位置する山である。
一般に谷川岳の山頂と呼ばれる場所には、標高1,963メートルのトマの耳と、1,977メートルのオキの耳という二つのピークがある。
関東から比較的アクセスしやすい一方で、急峻な岩壁を持ち、登山やロッククライミングの歴史でも知られてきた山だ。
今回泊まった「谷川岳肩ノ小屋」は、その名の通り山頂直下にある。
そこまで自分の足で登って、一晩を過ごす。
麓から見上げていた山の中に、その日は自分がいた。
考えてみれば、不思議なことである。
雲海は、自分のために現れたわけではない
この日、素晴らしい雲海を見ることができた。
写真を撮った。
きれいだった。
「来てよかった」と思った。
けれど、当たり前のことながら、この雲海は自分たちのために出てきたわけではない。
山もそうである。
人間が登ろうが登るまいが、山はそこにある。
雲も、人間が写真を撮るために流れているわけではない。
星も、自分たちに見てもらうために輝いているわけではない。
こちらの都合とは関係なく、
雲が生まれ、
風が吹き、
夜になり、
また朝が来る。
その途中に、
たまたま自分が居合わせた。
そう考えると、
「絶景を見ることができた」
というより、
「この景色が現れる時間に、たまたま自分もそこにいさせてもらった」
という感覚の方が近い。
だから「ありがたい」と思ったのかもしれない。
山は、こちらが来る前からそこにある
山を見ながら、もう一つ不思議に思った。
自分にとって谷川岳へ登った日は、
2026年8月の特別な一日である。
けれど谷川岳にとっては、何でもない一日なのじゃろう。
自分が高校生だったころも、ここにあった。
高校時代に出会った後輩と、何年もたって一緒に登っている今もある。

自分が生まれる前にもあった。
そしておそらく、自分がいなくなったあともある。
人間は、
十年でも「長い」と感じる。
高校時代を思い出せば、ずいぶん昔のように感じる。
けれど、山の時間から見れば、
人間の十年など、ほとんど一瞬なのかもしれない。
そう思うと、
自分が毎日あれこれ悩んでいることが、少しだけ小さく見えてくる。
仕事がうまくいかない。
人間関係に悩む。
将来が不安になる。
もっと成功したいと思う。
お金が欲しい。
時間が足りない。
もちろん、人間にとってはどれも大切な問題である。
山を見たからといって、それらが消えるわけではない。

ただ、
「この問題は、自分の人生のすべてなのだろうか」
と少し離れて眺められる。
山には、問題を解決する力があるというより、
問題を見る縮尺を変える力があるのかもしれない。
高校時代の後輩と山に登る
今回、一緒に登ったのは高校時代の後輩だった。
これも考えてみると面白い。
高校時代には、
何年もあとに二人で谷川岳へ登り、
山小屋に泊まり、
雲海を見ることになるとは考えていなかった。
人との縁は不思議なものじゃ。
学校を卒業すれば、それぞれ違う道を歩く。
仕事も変わる。
住む場所も変わる。
考え方も変わる。
会わなくなる人もたくさんいる。
それでも、ときどき何年も続く縁がある。
山はずっと同じ場所にある。
けれど、
そこへ一緒に来る人間は変わっていく。
高校生だった二人が大人になり、
今度は山の上で同じ景色を見る。
もしかすると旅の面白さは、
「どこへ行ったか」だけではなく、
「誰と、人生のどの時点でそこへ行ったか」
にもあるのかもしれない。
山小屋で食べるご飯
肩の小屋では、食事をいただいた。
山の上では、
水も食料も、当たり前には存在しない。
街ならコンビニへ行けばよい。
飲食店へ入ればよい。
水道をひねれば水が出る。
けれど山では、そうはいかない。

誰かが準備し、
運び、
管理し、
山小屋を維持しているから、
山の上で温かい食事にありつける。
登山をして腹が減ったあとに食べると、
それだけでありがたい。
普段なら、
「今日は何を食べよう」
「もっと美味しいものはないか」
と選んでいる。
けれど山の上では、
「食べるものがある」
というところまで感覚が戻ってくる。
便利になることは、もちろん良いことである。
ただ便利さには、
「あること」を当たり前にしてしまう側面もある。
食べ物がある。
水がある。
暖かい場所で眠れる。
一緒に山へ登る人がいる。
そして今日も身体が動く。
山へ行くと、
普段なら背景に消えているものが、
もう一度見えるようになる。
夜、空を見上げる
夜になると、満天の星が見えた。
月明かりに照らされた雲も美しかった。
昼間とはまったく違う世界だった。
山の夜には、街のような大量の明かりがない。
だから、空を見る。
考えてみれば、
星は東京からでも頭上にある。
見えにくいだけなのじゃ。
雲の上の景色も、
自分が日常生活を送っているあいだに存在している。
自分がパソコンに向かっているときも、
電車に乗っているときも、
仕事のことで悩んでいるときも、
どこかでは夕日が山を照らしている。
どこかでは雲海が広がっている。
どこかでは星が出ている。

世界は、自分が見ている範囲よりずっと大きい。
そんな当たり前のことを、
山の上では身体で思い出す。
自分の人生だけを見すぎない
人間はどうしても、
自分を中心に世界を見る。
今日うまくいった。
今日は失敗した。
あの人に嫌われた。
仕事が取れた。
お金が増えた。
将来が心配だ。
自分の人生だから、それで当然である。
けれど、自分の問題だけをずっと拡大して見ていると、
世界全体がその問題で埋まっているような気分になることがある。
そんなとき、
山の上から雲を眺める。

山は何も言わない。
「そんなことで悩むな」
とも言わない。
「人生は素晴らしい」
とも言わない。
ただ、そこにある。
それがいい。
自分の悩みを否定する必要はない。
ただ、
その悩み以外にも世界は存在している。
そう思い出すだけでよいのかもしれない。
山から下りれば、また日常が始まる
もちろん、いつまでも山の上にはいられない。
朝になれば歩き出す。
そして、いつか麓へ下りる。
仕事もある。
勉強もある。
やらなければならないこともある。
山へ登ったからといって、
人生の問題が全部解決するわけではない。
けれど、
少しだけ世界の見え方を変えて帰ることはできる。
自分がいなくても、山はある。
雲は流れる。
星は出る。

そして自分が生まれる前から続いてきた世界の中で、
たまたま数十年だけ、自分も生きている。
そう考えると、
人生は短い。
だから焦る、という考え方もできる。
けれど逆に、
「せっかくこの時間に居合わせたのだから、もう少し味わってみよう」
とも思える。
きれいな景色を見る。
誰かと歩く。
腹が減ったら飯を食う。
疲れたら眠る。
朝が来たら、また歩く。
人生も、
案外それくらいでよい日があるのかもしれんのう。
谷川岳で見た雲海も、星空も、
いつか記憶の中の景色になる。
けれど、
あの山は明日もそこにある。
さて。
目の前のことだけで頭がいっぱいになったとき、
あなたには、自分の時間を少しだけ大きな時間の中へ戻してくれる場所があるじゃろうか。

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